孫子 全文(現代語訳)
このページでは、孫子(孫子の兵法)の全文について、現代語訳にした上で記載しています。
一章:計篇
孫子は言う。軍事は国家の命運を決する重大事であると。だから軍の生死を分ける戦場や、国家の存亡を分ける道の選択は、くれぐれも明察しなければならない。
そこで、死生の地や存亡の道を考えるために五つの基本事項(五事)を用い、さらにどこが死生の地でどれが存亡の道かを明らかにするため、比較・検討する基準を使って彼我の優劣を探る。
五つの基本事項(五事)とは、道・天・地・将・法である。
- 「道」とは、民の心を上に立つ君主と一つにさせ、民と君主が生死を共にすることに対して疑いを持たないようにすることである。
- 「天」とは、陰陽、気温の寒暖、四季の推移の定めのことである。
- 「地」とは、距離の遠近、地形の険しさと平坦さ、地形が有利か不利かである。
- 「将」とは、智力、誠実さ、思いやり、勇気、厳格さといった将軍の能力である。
- 「法」とは、軍隊の編成、各人の職権、将軍の指揮権についてのルールである。
およそこれら五つの事項は、将軍である以上、誰でも聞き知ってはいるが、その重要性をよく知っている者は勝ち、本質を知らない者は敗れる。そこで、彼我の生死を分ける地や存亡を分ける道をはっきりさせるため、優劣を比較する基準(七計)を用いて、実際に自らと相手の優劣を探る。
その内訳は、
- 君主はどちらが民心を掌握でき、君主と民の心が一つになれているか?
- 将軍の能力はどちらが優れているか?
- 天の利、地の利はどちらにあるか?
- 軍のルールはどちらが公正に運用されているか?
- 兵力はどちらが強大か?
- 兵士はどちらがより訓練されているか?
- 賞罰はどちらが公正に実行されているか?
である。私はこうした比較によって、戦う前から勝敗の行方を知るのである。
将軍が私の計略を聴き入れるならば、必ず勝つであろうからその地に留まる。将軍が私の計略を聴き入れないならば、必ず負けるであろうからその地を去る。私の立てる計略の有利さを理解して聴いてくれるならば、「勢」が生じて戦いを外から助けてくれる。勢とは、有利な状況を見抜き、その時々に臨機応変に対応することである。
戦争とは、騙し合いである。
だから、本当はできることもできないように見せかけるし、必要であっても必要でないように見せかける。また、実際は目的地に近づいているのに遠く離れているかのように見せかけ、目的地から遠く離れているのに近づいたかのように見せかける。
敵が利益を欲しがっている時は利益を餌に敵を誘い出し、敵が混乱していればその隙に奪い取り、敵の戦力が充実している時は敵の攻撃に備えて防禦を固める。 敵の戦力が強大な時は戦いを避け、敵が怒り狂っている時はわざと挑発してかき乱し、敵が謙虚な時は低姿勢に出て驕りたかぶらせ、敵が休息十分であれば疲労させ、 親しい間柄であれば分裂させる。
こうして敵が攻撃に備えていない地点を攻撃し、敵が予想していない地域に出撃する。
このように、兵家の勝ち方とは臨機応変の対応によるものであるから、あらかじめどのような方法で勝つかは人に話すことはできないのである。
そもそもまだ戦わないうちから作戦会議で既に勝つと確信するのは、五事・七計を基に得られた勝利の条件が、相手よりも多いからである。まだ戦っていない段階で勝つ見込みがないのは、勝利の条件が相手よりも少ないからである。勝利の条件が多い方は実戦でも勝利するし、勝利の条件が少ない方は、実戦でも敗北する。ましてや勝算が一つもないというのは、何をかいわんやである。私はこうした基準によって戦いの行方を観察しているので、勝敗は目に見えるのである。
二章:作戦篇
孫子は言う。戦時における標準の用兵なら、戦車千台・輜重車千台・武装した兵士が十万人で千里の遠くへと出兵して糧食を輸送する場合、内外の経費・賓客をもてなす費用・膠や漆の材料費、戦車・甲冑の準備など、一日に千金を費やして初めて十万人の軍を派遣することができるのだと。
いざ戦争を始めると、戦争が長引けば軍を疲れさせて鋭気を挫き、城攻めになれば軍隊の力は尽き果ててしまう。長い期間大軍を動かせば、軍事に要する国家予算が不足してしまうことにもなる。そして、軍が疲れて鋭気が挫かれ、兵力が尽きて財政が破綻するなら、外国の諸侯がその疲弊に乗じて攻め込んでくるだろう。
自国に智者がいたとしても、国が疲弊すると立て直すことはできない。だから、戦争には、最低限の目的だけを達成する短期決戦が有効なことはあっても、多くの目的を叶えようとする長期戦が有効だったことはないのだ。そもそも、戦争が長期化して国家にとっての利益が増したことは、未だ無い。そして戦争のもたらす弊害を知らない者は、戦争によって得られる利益についても知ることができない。
戦争が上手い将は、兵役を二度続けて人民に課することがなく、食糧も三度も重ねて補給することはない。初めの装備は自国で用意するが、その後の糧食は敵国のもので賄う。だから、軍の食糧は不足しないのである。国家が戦争で窮乏するのは、遠征して遠方の地まで糧食を輸送するからである。遠征して遠い土地まで糧食を運べば、民衆は貧しくなる。
近い場所での戦争となれば物価が高騰し、民衆の備蓄は底を尽いてしまう。民衆の蓄えが無くなれば、軍務・労務のための徴用も難しくなり、軍隊の勢力は中原で衰えてしまう。国内では家々の財産が無くなり、民衆の蓄えの7割が失われる。公家の蓄えも同様で、戦車が破壊されたり、馬が疲弊したり、甲冑や弓矢を作ったり、戟・楯・矛・櫓を準備したり、運搬のための牛車・大車を用意することで6割が失われてしまう。
だから、智恵のある将軍は、できるだけ敵の糧食を奪って兵士を食わせようとする。敵の一鍾を奪って食べることは、味方が用意する二十鍾分の糧食に相当し、敵の馬用の飼料である豆ガラ・藁の一石もまた、味方の用意する二十石分の飼料に相当するのである。
兵士に敵を殺させるのは怒りの感情にしかならないが、兵士に敵の財貨を奪い取らせるのは利益になる。だから、戦車を使った戦いで相手の戦車を十台以上鹵獲した時は、最初に鹵獲した者に褒賞を与える。奪った戦車は旗を自国のものに取り替えて、自国の軍に組み入れて兵を乗せる。捕虜にした兵卒には待遇を良くして味方に組み入れる。これが敵国に勝ちながら、国力を増強させる方法である。
このように戦争は勝利を第一とするが、長期戦になることは避けるべきである。そして戦争・兵法をよく知っている将軍は、民衆の生死を司り、国家の存亡を分けるような重大な判断をする者である。
三章:謀攻篇
孫子は言う。用兵の原則は、敵国を傷つけずに降伏させることが上策であって、戦って打ち破るのは次善の策である。
軍団を降伏させるのが上策であって、軍団を打ち破るのは次善である。旅団を降伏させるのが上策であって、旅団を打ち破るのは次善である。大隊を降伏させるのが上策であって、大隊を打ち破るのは次善である。小隊を降伏させるのが上策であって、小隊を打ち破るのは次善である。
だから、百回戦って百回勝つのが最善ではない。戦わずして勝つのが最善である。
一番いい用兵とは、敵の策を未然に防ぐことである。次は外交によって敵を孤立させることであり、その次は実際に軍隊を動かして敵を攻めることである。最も下策なのは城攻めをすることだ。城攻めはやむを得ない時のみに行うべきである。
城攻めをするとなると大型の盾や装甲車を用意しなければならないし、他の城攻めの道具を準備するのに三ヶ月も掛かる。さらに城に攻め込むための土塁を築くのに三ヶ月掛かる。将軍が怒りを我慢できずに攻撃を始めて、城壁に兵士を蟻のように登らせて全軍の三分の一もの犠牲を払いながらもなお城を落とせないというのは、城攻めの最悪の事態である。
だから用兵に優れている将軍は、敵兵を屈服させるとしても、直接の戦いを用いないのである。敵の城を落とすとしても城攻めはしない。敵国を滅ぼすとしても長期戦にはしない。
いつも敵の国土や物資を無傷で手に入れるやり方で覇権を争う。だから軍隊は疲弊することがなく、利益だけを享受することができる。これが謀によって敵を攻める原則である。
用兵の原則は、味方の兵力が敵に十倍するなら包囲し、五倍なら攻撃し、倍なら敵を分断して叩き、対等なら戦い、兵力に劣れば退却し、敵が圧倒的であれば避けて隠れる。寡兵なのに強気であれば、大軍の捕虜になるだけである。
そもそも将軍とは、国家の補佐役である。将軍が君主と親しくしていればその国は必ず強いが、将軍と君主の間に溝があるなら国は必ず弱い。それゆえ君主が軍事について心配すべき事は三つある。
一つ目は、軍が進んではならない局面をわきまえず「進め」と命令し、軍を退けてはならない局面をわきまえずに「退け」と命令することである。これは、軍の戦術を乱す。二つ目は、君主が軍の事情を良く知らないのに軍務に干渉することであり、これでは兵士が混乱する。三つ目は、兵の運用を知らないのに、軍を指揮することであり、これでは兵士が疑念を抱いてしまう。軍隊が混乱し君主に疑いを抱いているなら、それに付込んで外国の諸侯が攻めこんでくる。これを、軍の秩序を乱して勝利を捨てる状況という。
そこで、勝利を知るのに五つの要点がある。
戦うべき時と戦ってはならない時とを知っている者は勝つ。大軍と寡兵それぞれの用兵をわきまえている者は勝つ。上下の意思統一ができている者は勝つ。自分たちは十分に準備し、準備していない敵を待ち受ける者は勝つ。将軍が有能であり、君主が余計な干渉をしなければ勝つ。
この五つの要点が、勝利を知る道である。だから「敵の実情を知り、己の実情を知っていれば、百回戦っても敗れることがない」と言うのだ。敵を知らず自分ことのみを知っている状態なら、その時次第で勝ったり負けたりする。敵を知らずに自分のことも知らなければ、戦う度に必ず敗れる危険がある。
四章:形篇
孫子は言う。昔の戦上手は、まず「攻撃されても絶対負けない」状況を作ってから、敵の態勢が「攻撃すれば絶対勝てる」状況になるのを待った。「攻撃されても絶対負けない」状況を作るのは自軍だが、「攻撃すれば絶対勝てる」状況を作るのは敵方である。だから、いかに戦上手でも「絶対負けない」状況を作ることはできるが、「絶対勝てる」状況を確実に作ることはできない。それゆえ言うのだ。「勝利は予測できても、勝つ時期を決めることはできない」と。
「絶対負けない」というのは守備に関することだ。一方「必ず勝てる」というのは攻撃に関することだ。守備の態勢をとれば戦力に余裕ができ、攻撃の態勢をとれば戦力が不足する。守備のうまい者は地底深く隠れて進み、攻撃のうまい者は大空の上にはばたくように進む。だから味方を傷つけず、完全な勝利をおさめることができるのである。
勝因が世間の人が考えるのと同じレベルであれば、それは最高の勝ち方ではない。反対に、戦いに勝って世間の人が賞賛するような勝ち方も最高の勝ち方ではない。細い毛を持ち上げたからといって力持ちとは言わないし、太陽や月が見えたからといって目がいいとは言わないし、雷が聞こえたからといって耳がいいとは言わない。
昔のいわゆる戦上手と呼ばれた人は、勝ちやすい状況で勝つべくして勝ったのである。戦上手の人は勝利しても、智謀も評価されず武勇も評価されない。勝つべくして勝っているだけである。勝ちが確実な者は、すでに敗れる定めの敵に勝っているのである。だから、戦上手は、勝つ条件を整えた上で敵のスキを逃すことがないのだ。そのため、勝利する軍隊は戦う前にまず勝つ条件を整えてから戦いをはじめるが、負ける軍隊は戦いを始めてから何とか勝とうとするのである。
戦上手は、道理をわきまえ、軍隊の規律を守る。だから、勝敗を思うままに操れるような軍の統制ができるのだ。
兵法とは、第一に「度」(戦場の状態や地形を考えること)、第二に「量」(投入すべき物資を考えること)、第三に「数」(動員すべき兵員数を考えること)、第四に「称」(敵味方の数や能力を比較すること)、第五に「勝」(勝敗を予測すること)である。
戦場を観察して状態や地形がわかれば、それによって投入すべき物資の量がわかる。投入すべき物資の量がわかれば、それによって動員すべき兵員数が決まる。動員すべき兵員数が決まれば、それによって敵味方の数や能力を比較することができ、それによって勝敗を予測することができる。だから、勝利する軍隊は、重い重りで軽い重りを測るように優勢である。負ける軍隊は軽い重りで重い重りを測るように劣勢である。
勝利する者が人民を戦いに駆り出すのは、ちょうど満々とたたえられている水の堰を切って、水を千尋の谷底へと勢い良く流すようなもので、この勢いこそが『形』(形勢)である。
五章:勢篇
孫子は言う。大勢の兵士を率いていても、少数の兵士を率いているように扱えるのは、軍の編成がしっかりしているからである。大勢の兵士で戦っていても、少数の兵士で戦っているかのように扱えるのは、旗印や鳴りものなどがしっかりと整っているからである。全軍の兵士が、敵軍に上手く対応して負けないようにできるのは、正攻法と奇策の使い分けのおかげである。戦いとなって、石を卵にぶつけるかのように簡単に敵を撃破できるのは、虚実の使い分けのおかげである。
戦いとは、正攻法を用いて敵と対峙し、奇策を巡らせて勝つのである。だから、奇策を効果的に用いる者は、天地の動きのように定まることがなく、長江・黄河の流れのように終わりがない。終わってもまた新たに始まるのは太陽と月のようでもあり、四季の季節のようでもある。音には五つの種類しかないが、その五つの音の組み合わせは多様で聴き尽くせない。色は五つの種類しかないが、その五つの色の組み合わせは多様で見尽くせない。味は五つの種類しかないが、その五つの味の組み合わせは多様で味わい尽くせない。
戦い方も正攻法と奇策の二つしかないが、その組み合わせの変化は多様で極め尽くせない。奇策と正攻法が生じることは、丸い輪に端がないようなものである。一体、誰がその道理を極められようか。
激しく速い水の流れが、石を押し流していくのが「勢い」である。鷲や鷹が獲物を襲って、一撃で骨を打ち砕いてしまうのが「節目」である。そして、戦いが上手い者は、「勢い」が激しくなった時、「節目」の短い瞬間を捉えるのである。「勢い」は弓を引き絞るようなもので、「節目」は一瞬で矢を放つようなものである。
混乱は秩序から生まれ、臆病は勇敢さの中から生まれ、弱さは強さの中から生まれる。秩序ある状態か混乱するかは、軍の編成で決まる。臆病になるか勇敢になるかは、戦いの勢いによって決まる。強くなるか弱くなるかは、軍の態勢によって決まる。
そこで、敵を巧みに誘い出す者が相手にわかるように行動すると、敵は必ずこの誘いに乗ってくる。敵に餌を与えれば、敵は必ずこれを取ろうとする。利益を与えて敵を思い通りに動かし、裏をかいて待ち受けるのである。
したがって、優れた兵法家は軍の勢いを求めるが、兵士個々人の力を求めることはない。だから、人材を適材適所に配置した後は、軍の勢いに任せるのである。勢いに任せる指揮官が兵士を戦わせる様子は、木や石を勢いよく転がすようなものである。木や石は、安定している時は静止しているが、不安定であれば動き始め、木や石の形が四角であれば止まり、丸ければ転がっていく。そして、兵士を上手く戦わせている者の勢いが、丸い石を千尋の山から転がり落とすような様を「勢」というのである。
六章:虚実篇
先に戦場にいて敵軍の到着を待ち受ける軍隊は楽だが、あとから戦場にたどり着いて、休む間もなく戦闘に入る軍隊は疲れる。したがって戦巧者は、自分が主導権を取り、相手のペースで動かされない。敵を上手くおびき寄せることができるのは、利益を見せて釣るからである。敵を上手く遠ざけることができるのは、デメリットになることを見せて来させないようにするからである。敵が休息をとって楽にしているのであれば疲れさせ、腹いっぱいなら飢えさせ、留まっているなら動かすのである。
敵の行く所に必ず駆けつけ、敵の意図しない地点から攻撃をしかけ、千里もの長距離を遠征しても疲れないのは、敵兵がいないところを進軍するからである。敵の拠点を攻撃して必ず奪取するのは、敵が守備していない地点を攻撃するからである。防御して必ず堅固なのは、敵が攻撃してこない地点を守るからである。だから、攻撃の巧みな者にかかると、相手はどこを守ればよいのかわからず、防御の巧みな者にかかると、相手はどこを攻めればよいのか判断できない。ついには無形に達し、無音に達する。相手を生かすも殺すも自由自在である。
自軍が進撃しても、敵軍がそれを迎え撃てないのは、敵の隙を衝いた進撃だからである。自軍が退却しても、敵軍が阻止できないのは、こちらの動きが素早く距離が開いて追撃できないからである。もしこちらが戦いを望んだ時、敵が土塁を高くし、堀を深く掘って守りを固めていても、どうしても戦わざるを得なくなる。それは、敵が救援に出ざるを得ない地点を攻撃するからである。もしこちらが戦いを望まない時、地面に防衛戦を描いただけでも、敵が防衛戦を突破して来れないのは、敵の関心を別の方向にそらすからである。
戦巧者は、敵軍には態勢をとらせておいて、味方は態勢を隠した状態にするから、自軍は兵力を集中するが、敵軍はすべての可能性に備えようとして兵力を分散する。味方は兵力を集中させて一つにまとまる一方で、敵は十の部隊に分散しているとすれば、敵の兵力の十分の一を味方が攻撃することになる。つまり、味方の兵力は多く、敵の兵力は少ない。味方で少ない敵を攻撃することができるのは、敵が既に分裂しているからである。味方が兵力を集結する地点を敵にわからないようにすると、敵は備えなければならない地点が多くなり、兵力が手薄になる。前面に備えれば後方が手薄になり、後方に備えれば前方が手薄になり、左翼に備えれば右翼が手薄になり、右翼に備えれば左翼が手薄になり、すべての方面に備えようとすれば、あらゆる方向が手薄になる。兵力が手薄になるのは、相手の動きに備える立場だからである。兵力が優勢になるのは、相手を自軍の動きに備えさせる立場だからである。
だから、戦うべき場所と日時を決めたら、たとえ千里の遠方であっても進軍して戦端を開くべきなのだ。戦いが起こる日時も、戦いが起こる地点も予知できなければ、左翼の軍は右翼を救うことができず、右翼は左翼を救うことができず、前衛は後衛を救うことができず、後衛は前衛を救うことができない。そういった状況では、遠い場合で数十里、近い場合で数里先の味方を救えないのは当たり前である。こうして考えると、越の兵士が多いからといって勝利に貢献するわけではない。敵の兵がいかに多くとも、戦えない状況に追い込むことができるのだ。
そこで、戦いの前に敵情を調べて損得を測り、敵軍を動かしてみて行動の基準を知り、敵軍の態勢を把握して、破ることのできる地勢と破ることのできない地勢を知り、敵軍と小ぜりあいしてみて、相手の足りている部分と足りていない部分を知る。
軍の態勢の究極は、形をあらわさないことである。形をあらわさなければ、深く入り込んだスパイもかぎつけることができず、知謀の者でも予測することができない。態勢が読みとれれば勝利を得られるが、一般の人は知ることができない。人々はみな、味方が勝利する様を知っているが、味方がどのようにして勝利をおさめたかを知ることはない。だから、勝利の有様は一度きりで、相手の態勢に応じて臨機応変である。
そもそも軍の態勢は水のようなものである。水の流れは高いところを避けて低いところへと流れるが、軍の態勢も、敵が備えをする「実」の部分を避けて、備えが手薄な「虚」の部分を攻撃する。水は地形によって流れを決めるが、軍も敵軍の態勢に応じて勝利を決する。軍には決まった勢いというものがなく、決まった形もない。敵の出方によって変化して勝利を得る。これこそ計り知れない神業である。だから、陰陽五行において常に勝ち続けるものはないし、四季はいつまでも留まることがない。日の長さには長短があり、月には満ち欠けがあるのである。
七章:軍争篇
孫子は言う。およそ用兵の原則は、将軍が君主からの命令を受け、軍を編成し人員を集め、敵と対峙してするまでの間であり、相手の機先を制する「軍争」が一番難しい。軍争で難しいのは、曲がりくねった道を真っ直ぐに変え、不利な条件を有利にかえるところにある。遠回りをするように見せかけ、敵をエサでおびき出して足止めし、敵に遅れて出発しながらも最終的には敵に先んじて到着する。これができるのは曲がりくねった道を真っ直ぐに変える計略(迂直の計)を知る者である。
「軍争」は利益をもたらすが、同時に危険もはらんでいる。全軍が揃って有利な地点を確保しようと行軍すれば、結果として敵に出し抜かれる。部隊それぞれが有利な地点を確保しよう行軍すれば、足の遅い輸送部隊は後方に置き去りにされる。だから、軍に輸送部隊が無ければ敗れる。食糧が無ければ敗れ、備蓄が無ければ敗れてしまう。
鎧を脱いで走り、昼夜強行軍で倍の距離を走り、百里先の有利な地点を確保しようと争う時は、三将軍すべてが捕虜になる大敗北となる。体力のある隊だけが到着し、疲れた隊は置き去りにされ、十人に一人も行き着けばいいほうだろう。五十里先の有利な地点を確保しようと争うならば上将軍を失い、半数の兵が行き着く。三十里先であれば三分の二が目的地に行き着く。このように「軍争」とは難しいものである。
他国の諸侯がどんな計略を考えているかを知らない者は、事前に同盟を結ぶことはできない。山林や険しい地や沼地など地形の状態を知らない者は軍を進軍させることができない。土地に慣れた道案内を使わない者は地の利を得ることができない。
用兵は敵の裏をかくことが基本である。利益のある無しに従って行動し、離合集散しながら柔軟に陣形を変える。軍は、風のように素早く動き、林のように静かに進み、火が燃えるように一気に侵略し、山のようにどっしりと構えて動かず、暗闇のように存在を知られず、雷のように激しく攻撃するようのものだ。敵の領土から略奪する時は軍を分散させ、領土を拡大する時は利益を配分し、損得勘定を計算して動く。そして「迂直の計」を知っている者が勝つ。これは「軍争」の原則である。
古い兵法書には「口で言っても聞こえないから鐘や太鼓を使い、指し示しても見えないから旗や幟を使う」とある。そもそも鳴り物や旗は兵士たちの行動を統一させるもので、軍隊がすでに一つにまとまっているなら、勇敢な者が一人だけ突出することはなく、臆病な者が一人だけ退くことはない。これが大部隊を運用する方法である。だから夜の戦には松明と金鼓を多く使い、昼の戦には旗や幟を多く使う。鐘や太鼓や旗や幟は、人の目や耳を統一するためのものなのだ。
こうして敵の軍隊の気力を奪い、敵の将軍の気力を奪わなければならない。朝は気力が満ちているが、昼になると気力は衰え、日暮れになると気力は尽きる。だから戦上手は、敵の気力が充実した時を避け、衰えて休息を求めている時を狙う。これが敵の気力を操る者の戦い方である。秩序だった状態で乱れた敵を攻め、落ち着いた状態で混乱した敵を攻める。これが敵の心をうまく操る者の戦い方である。また、戦場の近くで遠くから来る敵を待ち伏せ、英気を養った状態で疲れ果てた敵を攻撃し、食が足りた状態で飢えた敵を攻撃する。これが敵の力を操る者の戦い方である。さらに敵が秩序だっており、陣容も堂々としている相手に戦いを挑まない。これこそ敵の変化に従って柔軟な戦いができる者の戦い方である。
用兵の原則は、高い丘にいる敵に向かって攻めてはならない、丘を背にして攻めてくる敵を迎え撃ってはならない、険しい地勢にいる敵と長く対峙してはいけない、偽りの退却をする敵を追ってはならない、士気の高い兵には攻撃を仕掛けてはならない、囮の兵士に攻撃してはならない、母国に退却しようとしている敵軍をふさいではならない、包囲した敵軍には逃げ道を開けておき、窮地に追い込まれた敵軍を攻撃し続けてはならない。これが戦いの原則である。
八章:九変篇
孫子は言う。およそ兵を運用する方法としては、将軍が君主の命を受けて、軍を編成し、兵士を統率しながら進撃するにあたり
- 圮地(足場の悪い土地)には宿営してはならない
- 衢地(他国と三方で接する土地)では他国と親交を結ぶ
- 絶地(本国から遠く離れた土地)ではとどまらず素早く通り過ぎる
- 囲地(周囲が囲まれている土地)では後退する計略を立てる
- 死地(周囲が敵に包囲されている土地)では必死に戦って脱出する
- 道の中には通ってはならない道がある
- 敵には攻撃してはならない敵がある
- 城には攻略してはならない城がある
- 土地には奪取してはならない土地がある
君命には、受けてはならない君命もある。だから、これらの九変(九つの対処法)による利益を精通している将軍こそが用兵を知る者である。
将軍でありながら九変による利益に精通していない者は、たとえ戦場の地形を知っていても、その地形がもたらす利益を自分のものにすることができない。兵を統率していながら九変の術を身につけていなければ、五つの地形での兵法を知っていても、兵士たちの力を存分に生かすことはできない。
このように、智者の思慮は、ある一つの事柄を考える場合にも「利」と「害」との両面から洞察する。利益になる事柄に害の側面を交えて考えることで、狙い通りに達成できる。害となる事柄に利益の側面も交えて考えることで、不安を消すことができる。諸侯を自国の前に屈服させる時は、害悪ばかりを強調する。諸侯を利用する時は、一見すると魅力的な事業を用意する。諸侯を奔走させる時は、利益だけを見せるようにする。
よって、用兵の原則は、敵が来ないことをあてにするのではなく、いつ来てもいいように備えることをあてにする。敵が攻撃して来ないことをあてにするのではなく、攻撃できないような態勢があることをあてにするのである。
将軍には五つの危険がある。
- 決死の覚悟だけで思慮に欠ける者は敗死する
- 生き延びることしか頭にない者は捕虜にされる
- 短気で怒りっぽい者は軽んじられる
- 清廉潔白だけの者は侮辱される
- 人情の深い者は気苦労が絶えない
およそこれら「五危」は、将軍として足りない部分であり、用兵で災をもたらす事柄である。軍を滅ぼして将軍を敗死させる原因は、必ずこれら「五危」のいずれかである。充分に明察しなければならない。
九章:行軍篇
孫子は言う。およそ軍隊を配置し、敵情を偵察するのに、
- 山を越えるには谷沿いに進み、敵よりも高い位置を占め、戦う時に低地から高地へ攻め上ってはいけない。これは山岳地帯で戦う時の注意である
- 川を渡り終えたならば、必ずその川から遠ざかる。敵が川を渡って攻撃してきたときには、敵軍がまだ川の中にいる間に迎え撃ったりせず、敵兵の半数を渡ったところで攻撃するのが有利である。川の近くで戦う場合、上流の位置を占め、下流から川の流れに逆らってはならない。これは河川の近くで戦う時の注意である
- 沼沢地を越える場合には、素早く通過するようにして休息してはならない。やむをえず、沼沢地の中で戦う場合は、水草の近くで森林を背に配して布陣せよ。これは沼沢地で戦う時の注意である
- 平地では、足場のよい平坦な場所を占めて、高台を背後と右におき、低地を前方に配して布陣せよ。これは平地で戦う時の注意である
この四種の地勢で上手く戦ったからこそ、黄帝は四方の敵に打ち勝ったのである。
布陣するには、高地がよく、低地は避けるべきである。 日当たりの良いところを選び、日当たりの悪い所は避ける。健康に留意して、水や草の豊かな場所に布陣し、軍隊に疾病が起こらないのを必勝の軍と呼ぶ。丘陵や堤防などでは、日当たりの良い場所に布陣し、丘陵や堤防が背後と右手となるようにする。そうすることで戦いにプラスに働き、地形の助けを受けることができる。上流が雨で、川が泡だって流れているときは、洪水の恐れがあるから、その流れの落ち着くのを待ってから渡河するべきである。
およそ地形に、絶壁の挟まれた谷間・四方が切り立った自然の井戸のような地形・三面を囲まれた自然の牢獄のような地形・草木が生い茂って自然の取り網のような場所・自然の落とし穴のような地形・狭い洞穴状の天然の隙間がある時、速やかにそこを立ち去って近づいてはならない。自軍はその地を避け、敵は近づくように仕向ける。自軍はこれらの地形を正面に見て、敵は背後になるように仕向ける。
軍の近くに、険しい地形・池や窪地・芦の茂った場所・山林・草木が茂った場所があれば、必ず注意深く捜索せよ。これらは伏兵が潜んでいる場所である。
敵が自軍の近くにいながら平然と静まり返っているのは、彼らが占める地形の険しさを頼りにしているのである。遠くにいる敵がわざわざ攻めてくるのは、こちらが進軍することを望んでいるからである。平地に布陣しているのは、彼らの地形が有利だからである。木々がざわめくのは、敵軍が森林の中を移動して進軍しているからである。 草を覆い被せてあるのは、伏兵の存在を疑わせようとしているからで、草むらから鳥が飛び立つのは、伏兵がそこにいるからである。 獣が驚いて走り出てくるのは、潜む敵軍が奇襲攻撃をしようとしているからである。
砂塵が高く舞い上がって、その先端が尖っているのは、戦車部隊が進撃してくるからで、砂塵が低く垂れ込めて、広がっているのは、歩兵部隊が進撃してくるからである。砂塵があちこちに散らばって細長いのは、薪を集めているからで、 砂塵の量が少なくて行ったり来たりするのは、軍営を張る作業をしている。
敵の使いがへりくだっていて、守備を固めているのは、進撃をしようとしている。 敵の使いの態度が強硬で、敵軍の先鋒が侵攻してくるのは、退却の準備をしている。 隊列から軽戦車が抜け出して、側面についているのは、陣立てをしている。行き詰まっていないのに和睦を求めてくるのは、なんらかの策謀である。伝令があわただしく走り回って、各部隊を整列させているのは、決戦を決意している。敵の部隊が進んだり退いたりを繰り返しているのは、こちらを誘い出そうとしている。
兵士が杖をついて立っているのは、全軍が飢えている。 兵が水を見つけた時、真っ先に水をくんで飲むのは、その軍が飲み水に困っている。 利益がある状況で進撃してこないのは、兵が疲労している。鳥がたくさん集まっているのは、その陣はもぬけの殻である。夜に叫ぶ声がするのは、兵が臆病で怖がっている。軍営の騒がしいのは、将軍に威厳がない。旗が落ち着かないのは、軍が乱れている。役人が腹を立てているのは、軍がくたびれているからだ。 馬に兵糧米を食べさせ、兵士が軍馬を食べ、軍の鍋釜の類はみな打ち壊して、その幕舎に帰ろうとしないのは、切羽詰まった敵である。指揮官がねんごろに兵士たちを諭しているのは、みんなの心が離れている。むやみに賞を与えているのは、士気が上がらず困っている。 むやみに罰しているのは、その軍が疲れている。最初、乱暴に扱っておきながら、兵士たちの離反を恐れて下手に出るのは、考えの行き届かない極みである。わざわざ贈り物を持ってきて休戦を申し出るのは、しばらく軍を休めたいからだ。敵軍がいきり立って向かってきたのに、いつまでたっても戦端を開かず、撤退もしない時は、注意深く状況を観察すべきである。
軍は兵員が多いほどよいというものではない。猛進しないようにして、戦力を集中して敵情をよく考えて行動すれば勝てる。よく考えることもしないで敵を侮っている者は、きっと敵の捕虜にされてしまうだろう。兵士たちがまだ将軍に懐いていないのに懲罰を行なうと、彼らは心服しない。心服しないと十分に働かせることができない。反対に、兵士たちがもう懐いているのに懲罰を行なわないでいると、規律が乱れて、彼らを働かせることはできない。だから、兵を指導するにあたっては「暖かさ」 をもって行い、命令するにあたっては「厳しさ」をもって行う。これを必勝の軍という。法令が普段からちゃんと守っていれば、命令しても民は従うものだ。法令を普段から守っていなければ、命令しても民も従わない。法令を普段から誠実に守る者は、民衆と心が一つになっているのである。
十章:地形篇
孫子は言う。戦場の地形には、四方に開けた地形、障害物が多い地形、枝分かれした地形、 道幅が狭まった地形、高く険しい地形、両軍の陣地が遠く離れているものがある。
- 味方も敵も簡単に来れる場所は「四方に開けた地形」である。ここでは、敵より先に日当たりの良い高台に布陣し、補給線を確保して戦えば、有利になる。
- 行くのは簡単だが引き返すのが難しいのが「障害物が多い地形」である。ここでは、敵に備えがなければ勝てるが、備えがあれば勝てず、再び引き返すのも困難で、不利である。
- 味方も敵も不利なのが「枝分かれした地形」である。ここでは、敵の挑発に乗って進軍してはならない。軍を後退させて、敵の半数が分岐点を過ぎて進出したところを攻撃するのが有利である。
- 「道幅が狭まった地形」では、味方が先に占拠していれば、兵力を密集させておいてから、敵を待ち受ける。もし、敵が先に占拠していて、しかも敵の兵力がその隘路上に密集している場合には、そこへ攻めかかってはならない。たとえ敵が先に占領していても、敵の兵力がまばらな場合には攻めかかれ。
- 「高く険しい地形」では、味方が先に占拠していれば、必ず高地の南側に陣取って、敵を待ち受ける。もし、敵が先に占拠している場合には、軍を後退させてその場を立ち去り、攻めかかってはならない。
- 「両軍の陣地が遠く離れている」場合、戦力が互角な場合は、戦いを仕掛けるのは困難である。無理に戦えば、不利になる。
これら六つの事柄は、地形についての道理である。将軍の最も重大な任務であるから熟慮しなければならない。
兵士の中には「逃亡する者」「気持ちが緩む者」「気持ちが萎える者」「崩れる者」「乱れ者」「敗走する者」がいるが、これら六つのことは、自然の災害ではなく、将軍の過失によるものである。
- 逃亡する者:味方と敵の勢いが同じ時、十倍の敵と戦うなら兵は逃亡する。
- 兵士たちが強いのに、管理する役人が弱いと兵の気が緩む。
- 管理する役人が強くて、兵士の弱いと兵の気持ちが萎える。
- 役人のトップが将軍の命令に従わず、敵に遭遇しても自分勝手な戦いをし、将軍もまた彼の能力を知らない場合、軍は崩れる。
- 将軍が弱腰で厳しさがなく、軍令も明確でなく、役人と兵士たちとの関係にもきまりがなく、陣立てもでたらめであれば、軍は乱れる。
- 将軍が敵情を分析できず、少ない味方で多数の敵と戦い、勢いにまさった敵を攻撃し、軍隊の先鋒に精鋭がいなければ、敗走する。
これら六つの事柄は、敗北についての道理である。将軍の最も重要な責務として熟慮しなければならない。
そもそも地形は、軍事の補助的な要素である。敵情を分析して勝算を立て、地形が険しいか平坦か、遠いか近いかを考えるのが、全軍を指揮する将軍の役割である。こうしたことをわきまえて戦う者は必ず勝ち、わきまえないで戦う者は必ず敗れる。だから、自軍に絶対の勝算があるときには、たとえ主君が戦闘してはならないと命じても、ためらわず戦うべきだし、勝算がないときには、たとえ主君が戦闘せよと命じても、戦うべきではない。自分の功名をかえりみず進むべき時は進み、罪に問われることも恐れないで退くべき時は退く。兵士を無駄死させず、結果として君主の利益にもかなう。こういう将軍は国の宝である。
将軍が兵士たちを赤ん坊のように思い接して気持ちが伝わると、兵士たちは、将軍に従って深い谷底のような危険な土地にも行けるようになる。将軍が兵士たちをわが子のように思っていれば、兵士たちは、将軍に従って生死をともにできるようになる。しかし、手厚く遇するだけで仕事をさせず、かわいがるばかりで命令できず、間違ったことをしていてもそれを止めることができないようなら、わがままな子供のようなもので、使い物にならない。
味方の状況が攻撃すべき状況だとわかっていても、敵の状況が攻撃してはならない場合がある。それがわからなければ、必ず勝つとは限らない。敵の状況が攻撃できる状況だとわかっていても、味方の状況が攻撃をかけてはならない場合がある。それがわからなければ、必ず勝つとは限らない。敵の状況が攻撃できる状況で、味方の状況が攻撃すべき状況だとわかっていても、地形の条件が攻撃すべきでない場合もある。それがわからなければ、必ず勝つとは限らない。
兵法を知る者は、敵味方の状況や地形のことをよくわかった上で行動を起こすから、兵を動かして迷いがなく、戦って苦しむことがない。だから「敵情を知って、味方の状況も知っていれば、勝利は難しいことではない。天候と地形のことを知っていれば、勝利は決まったようなものだ」と言われるのである。
十一章:九地篇
孫子は言う。地形における用兵には「散地」「軽地」「争地」「交地」「衢地」「重地」「圮地」「囲地」「死地」がある。
- 諸侯が自国の領内で戦うのが「散地」である。
- 敵の領内に入ったが、まだ深入りしていないのが「軽地」である。
- 味方が奪い取れば味方に有利となり、敵が奪い取れば敵に有利になるのが「争地」である。
- 味方も敵も自由に行き来できるのが「交地」である。
- 諸侯の領地が三方に接続していて、交通の要衝となるのが「衢地」である。
- 敵の領内奥深く侵入し、多数の敵の城を後方に背負っているのが「重地」である。
- 山林や沼沢地を越えて、進軍が難渋するのが「圮地」である。
- 中へ入り込む道は狭く、引き返す道は曲がりくねって遠く、敵が寡兵で味方の大部隊を攻撃できるのが「囲地」である。
- 迅速に突撃すれば生き延びるが、突撃が遅れるとたちまち全滅するのが「死地」である。
よって、散地では戦闘してはならず、軽地では立ち止まってはならない。 争地では敵が先に占拠したら攻めてはならない。 交地では全軍の隊列を切り離してはならない。衢地では他国と親交を結び、重地では物資を略奪する。圮地では速やかに通過し、囲地では策謀をめぐらせ、死地では速やかに死闘する。
昔の戦巧者は、敵の前軍と後軍との連絡ができないようにさせ、大部隊と小部隊とが助け合えないようにさせ、身分の高い者と低い者とが互いに救い合わず、上下の者が互いに助け合わないようにさせ、兵士たちが分散して集中しないようにし、集中しても整わないようにさせた。こうして、味方に有利な状況になれば行動を起こし、有利にならなければ次の機会を待ったのである。
あえて聞くが、敵が秩序だった大軍で味方を攻めようとしている時は、どのようにして迎え撃つのか?
まず敵が大切にしているものを奪取すれば、敵はこちらの思いどおりにできる。戦いは迅速が第一である。敵の準備が整わないうちに、思いがけない方法を使い、敵の備えのない所を攻撃することだ。
敵の領内に侵攻する時の原則は、敵地奥深くまで入ると、味方は結束するから、散地で戦う迎撃軍は対抗できない。肥沃な土地で掠奪すれば、全軍の食料も賄える。努めて兵士たちを休養させて疲労させないようにし、士気を高めて団結し、戦力を蓄え、軍を移動させては策謀をめぐらせて、思いもよらない場所から攻撃する。そして軍を逃げ場のない状況に追い込めば、兵士たちは死んでも敗走したりしない。将軍と士卒がともに死力を尽くせば、勝てないはずがない。
兵士は、非常に危険な状況になると、もはや危険を恐れなくなる。そして、どこにも逃げ場がなくなってしまうと、決死の覚悟を固め、 敵国内に深く入り込むと、一致団結する。 窮地に追いつめられると、必死に戦う。だから、外征する軍は、兵士が自ら進んで戒め、指示しなくても期待通りに動き、約束を交わさなくても自主的に連帯する。そして、軍令がなくても規律を守る。軍隊内での占いごとを禁止して、兵士の疑念を取り除くならば、戦死するまで決して逃げ出したりはしない。
味方の兵士たちが余分な財貨を持ち歩かないからといって、それは何も財貨を嫌ってのことではない。今ここで命を投げ出すのも、それは何も長生きを嫌ってのことではない。決戦の命令が発せられた日には、兵士たちの座り込んでいる者は、涙のしずくで襟を濡らし、横たわっている者は、涙の筋が頬を伝って顎に流れる。こうした兵士たちを、どこにも行き場のない窮地に投入すれば、専諸や曹劌のように勇敢になるのである。
戦の上手な者は、たとえば率然のようなものである。率然というのは、常山にいる蛇のことである。この蛇は、その頭を撃つと尾が助けに来て、尾を撃つと頭が助けに来て、その腹を撃てば頭と尾とで一緒に襲いかかる。「軍隊を率然のようにすることができるか?」とある人が聞いたが、孫子は「できる」と答えた。 「そもそも、呉の国の人と越の国の人は互いに憎み合っているが、一緒に同じ船に乗って川を渡る途中で大風に遭うと、彼らは左右の手のように協力して助け合う(呉越同舟)」。だから、馬を並べてつなぎ、車輪を土に埋めて陣固めをしてみても、決して頼りになる守りではない。軍勢を勇者も臆病者も等しく結束させて整えるのは、軍制の役割である。剛強な者も柔弱な者も充分な働きをさせるのは、地勢の道理によるものである。戦上手が、手をつないでいるかのように軍を一体にさせて動かすのは、兵士が戦うしかない状況に置くからである。
将軍の仕事は、もの静かで思慮深く、公明正大で自分をよく律しなければならない。士卒の耳目をうまくくらまして、軍の目的を知らせないようにする。 内容を様々に変え、その策謀も新しくして、兵たちに気づかれないようにする。駐屯地を転々と変え、その行路を迂回し、兵たちに推測されないようにする。軍を率いて決戦する時には、高いところへ登らせてから梯子を外すように、戻りたくても戻れないようにする。 深く敵の領土に入り込んで戦う時には、羊の群れを追いやるように自在に采配する。兵たちは追いやられてあちこちと行き来するが、どこに向かっているかは誰にもわからない。全軍の大部隊を集めて、決死の体制で危険な土地に投入するのは、将軍たる者の仕事である。九通りの地勢に応じた変化、軍の分散と集中、人情の道理について、将軍は充分に考慮しなければならない。
敵の領内に進撃した場合の原則としては、領内深く入り込めば味方は団結するが、侵入が浅ければバラバラになりがちである。本国を後にして、国境を越えて軍を進めた所は「絶地」である。 道が四方に通ずる交通の要衝は「衢地」である。 敵領内に深く進入した所が「重地」、少し入っただけの所が「軽地」である。 背後が険しくて前方が狭いのが「囲地」、 他に行き場のないのが「死地」である。
散地ならば、兵士たちの心を統一しようとする。軽地ならば、軍隊を一続きにして離散させないようにする。争地ならば、遅れている部隊を急がせようとする。交地ならば、守備を厳重にしようとする。衢地ならば、他国と同盟を固めようとする。重地ならば、食料の補給路を確保する。圮地ならば、早く行き過ぎようとする。囲地ならば、敵の作っている逃げ道をふさごうとする。死地ならば、兵に生き延びることができないと決死の覚悟をさせる。兵士たちの心情を考えると、囲まれたなら抵抗し、戦う以外に道がなければ奮闘し、ギリギリの状況になれば将軍の命令に従う。
諸侯の胸の内がわからないのでは、前もって同盟することはできない。 山林・険しい地形・沼沢地などの地形を知らないのでは、軍を進めることはできない。その土地の案内役を使わないと、地の利を得ることはできない。これらの三つは、その一つでも知らないことがあれば、覇王の軍にはならない。そもそも、覇王の軍が大国を討伐するなら、その大国の軍は集合することができず、もし敵国に威圧を加えるなら、その国は孤立して他国と同盟することができない。天下の国々との同盟を結ばず、また天下の権力を集めようせず、自分の思う通りに振舞っていれば、威勢は他国を覆っていく。だから、敵の城も落とせるし、敵の国も破れるのである。
規定を越えた恩賞を施し、前例にない禁令を掲げるなら、全軍の大部隊を一人を使うような動かすことができる。兵を働かせる際は、任務を与えるだけにして、その理由を説明してはならない。 兵を働かせる際は、有利なことだけを知らせて、その害になることを告げてはならない。誰にも知られずに、軍隊を滅亡しかねない状況に投げ入れてこそ、はじめて生き延びることができる。そもそも、兵士たちは、危機に陥ってこそ、はじめて勝敗を決するような戦いができるのである。
戦いで大切な点は、敵の意図を正しく把握することにある。一つに団結して敵に向かい、千里もの遠方で敵将を倒すのを、戦いに優れた人と言うのである。戦いを決断する日には、国境一帯の関所を封鎖し、通行許可証の発行を止めて、敵国の使者の入国を禁止し、 廟堂の上で作戦会議を開き、戦争計画に決断を下す。敵の防衛線に隙を生じたならば、迅速に侵入し、敵の大切にしている所を攻撃し、敵の状況を考慮した上で勝敗を決する。
こうしたわけで、最初のうちは乙女のようにしおらしく振る舞えば、敵は油断して侵入口を開けてくれる。あとは追っ手から逃れるウサギのように、一気に相手の懐深く侵攻してしまえば、もはや敵は防ぎようがない。
十二章:火攻篇
孫子は言う。火を用いる攻撃法には五種類ある。
- 兵士を焼き討ちする
- 野外に積まれている物資を焼き払う
- 輸送中の輜重隊を焼き討ちする
- 物資を保管する倉庫を焼き払う
- 敵の補給路や橋などを焼き払う
火攻めの実行には、事前に準備が整っていなければならない。
火を放つには、適当な時節がある。火を大きくするには、適切な日がある。 火をつけるのに良い時節とは、空気が乾燥している時期のことである。火を大きくするのに良い日というのは、月が、箕・壁・翼・軫の星座と重なる日のことである。これらは、風が吹く日である。
火攻めは、五通りの状況の変化に従って兵を出す。
- 敵陣から火の手が上がった時は、それに呼応して攻め込む。
- 敵陣から火の手が上がっても様子が静かなら、しばらく待ってすぐに攻めてはいけない。火勢によって攻撃してよければ攻撃し、攻撃すべきでなければやめる。
- 敵陣の外から焼き討ちするのに都合が良ければ、敵陣中で火を付けるのを待たないで、適当な時を見て外から火をかける。
- 火が風上で起こっているなら、風下から攻めてはならない
- 昼間に長時間風が吹いた時、夜の風を利用した火攻めはやめる。
こうした五通りの火の変化のあることをわきまえ、経験を積んでこれを守らなければならない。
火攻めを有効に使うには、将軍の聡明さが必要である。一方、水攻めを有効に使うには、兵力が多ければ良い。水攻めは敵軍を分断することはできても、敵軍の戦力を奪い去ることはできない。
戦いで勝利を収め、戦果を得たにもかかわらず、それがもたらす戦略的成功を手に入れず、だらだら戦争を続けるのは最悪の行為である。国力を物資や人員の無駄使いである。
だから、聡明な君主は、すみやかに戦いを終結させようと熟慮する。優れた将軍は、戦いを短期決着させようとし、利益にならなければ動かず、得るものがなければ軍を動かさず、危険がなければ戦わない。
君主は、一時の怒りの感情から軍を動かしてはならない。 将軍は、一時の憤りに駆られて戦いをしてはならない。
国家の利益に見合えば軍事力を行使する。国家の利益に見合わなければ軍事力の行使を思いとどまる。怒りの感情はおさまって止むし、憤りの感情も同じである。しかし、その場の感情で戦争を始めて敗北すれば、滅んでしまった国家は元には戻らないし、死んでいった者たちも二度と生き返らせることはできない。だから、聡明な君主は軍事行動に慎重な態度で臨み、優れた将軍は戦うかどうか慎重に考える。これが国と軍隊を安泰にする方法である。
十三章:用間篇
およそ十万規模の軍隊を編成し、千里の彼方に外征するとなれば、民衆の出費や政府の支出は、日に千金の出費するほどになり、政府の内も外もあわただしく動き回り、民は道にへたり込み、通常の仕事に専念できない者たちは七十万戸にもなる。数年分の費用を掛けて、たった一日の決戦で勝敗を争うのである。
にもかかわらず、地位やお金を与えることを惜しんで、敵情を知ろうとしないのは問題外である。そんなことでは、人を統率する将軍とはいえず、君主の補佐役ともいえず、勝利を収めることもできない。
だから聡明な君主や知謀にすぐれた将軍は、敵に勝ち、成功を収める為に、あらかじめ敵情を察知するように努める。事前に情報を知ることは、鬼や神から聞き出すものでもなく、天界の事象になぞらえてわかるものでもなく、天道の理法とつきあわせてわかるものでもない。人によってのみ情報を知ることができるのである。
間者の使用法には五種類ある。「因間」「内間」「反間」「死間」「生間」である。
これら五種の間者が同時に諜報活動を行い、互いにその存在を知らないことを「神紀」と言い、君主の宝である。
- 因間は、敵国の民間人に諜報活動をさせるものである。
- 内間は、敵国の官吏に諜報活動をさせるものである。
- 反間は、敵国の間者に諜報活動をさせるものである。
- 死間は、虚偽の軍事計画を作り、別の間者がその情報を敵に漏らして、敵を欺くものである。
- 生間は、敵国に潜入した後、生還して情報をもたらすものである。
だから、全軍の中でも、間者は最も信頼され、高い報酬を与えられ、仕事は最も隠密裏に進められる。
抜きん出た智者でなければ、間者を使うことはできないし、思いやりの深い人でなければ、間者を使いこなすことはできない。細かなことまで心遣いができなければ、間者から本当に役立つ情報を引き出すことができない。何と測りがたく、奥深いことだろうか。間者を利用していない分野など存在しない。
間者が進めていた諜報活動が、まだ外部に発覚するはずもない段階で他の経路から耳に入った場合は、その間者とその情報を通報してきた者の両方を殺さなければならない。
討ちたいと思う軍隊・攻めたいと思う城・殺したいと思う人物については、必ず守備する将軍・ 左右の側近・ 奏聞者・ 門衛 ・宮中を守る役人の姓名をまず知った上で、味方の間諜にそれらの人物のことを詳しく調べさせる。
敵の間者で自国の領内でスパイをしている者がいれば、つけ入って利益を与えて誘い、自分の側に寝返らせる。こうすれば「反間」として用いることができる。 反間によって敵情がわかるから、因間や内間も使うことができるし、死間を使って偽りごとをした上で、敵方に告げさせることができる。さらに生間を計画通りに働かせることができる。五通りの間諜の情報は、君主が必ず知っているが、敵情を知るには反間の存在がある。だから、反間は手厚く遇するべきである。
昔、殷王朝が興った時、伊摯が間諜として夏の国に入り込んでいた。 周王朝が興った時には、呂牙が間諜として殷の国に入り込んでいた。だから、聡明な君主やすぐれた将軍だからこそ、優れた知恵を持った人物を間者とすることができ、偉大な功業を成し遂げることができるのである。間者こそ戦争の要であり、全軍が頼りにする情報源なのだ。