辞世の句

久坂玄瑞 最期の言葉〜辞世の句

久坂玄瑞 辞世の句 最期の言葉

「辞世の句」とは、人が死の間際に詠む漢詩・和歌・俳句などのことです。自分の人生を振り返り、この世に最期に残す言葉として、様々な教訓を私たちに与えてくれるといって良いでしょう。

古来より数えきれない辞世の句が残されてきましたが、このページでは久坂玄瑞の最期の言葉・辞世の句を紹介してみましょう。

久坂玄瑞について

久坂玄瑞(くさかげんずい)は、1840年に長州萩藩(現在の山口県萩市)の藩医の子として生まれました。

久坂玄瑞は母・兄・父と立て続けに亡くし、15歳にして藩医 久坂家の当主となります。そして藩の医学所に進んだ後、吉田松陰に師事し、高杉晋作とともに松下村塾の双璧と称されることとなります。

久坂玄瑞は約180cmほどの偉丈夫で、声が大きく美声であったと言われています。

久坂玄瑞の最期

後に長州藩の尊王攘夷派の中心人物となった久坂玄瑞ですが、八月十八日の政変に続く禁門の変で、約10倍にものぼる幕府側諸藩の軍に敗れ、1864年8月20日、鷹司邸内にて自刃することになります。享年24歳でした。

久坂玄瑞 辞世の句

そんな久坂玄瑞の辞世の句と言われているのが以下の句です。

  • 時鳥 血に鳴く声は 有明の 月より他に 知る人ぞなき

時鳥とはホトトギスのことで、現代文に訳すなら「私の志は、夜明けに輝く月の他に誰も知らない」といったところでしょうか。

「長州藩の若手の中では第一流の人物で天下の英才である」と吉田松陰が評した久坂玄瑞ですが、志半ばで斃れることになりました。死に際しては、周囲を振り返り「僕はこれまでだ、諸君は大いに勉めてくれよ」と話したと伝わっています。

もし生きていれば…と後世の人が惜しむ英傑の一人だった言える久坂玄瑞ですが、死を前にした時、彼の頭の中を去来したのはなんだったのでしょう。この久坂玄瑞の最期の言葉である辞世の句は、皆さんの心にどう響きましたか?