囲魏救趙(いぎきゅうちょう)は「魏を囲んで趙を救う」とも言われ、兵法三十六計の第二計に挙げられる計略です。
今回は、この「囲魏救趙」について詳しく見てみることにしましょう。
囲魏救趙(魏を囲んで趙を救う)とは?
「囲魏救趙(魏を囲んで趙を救う)」は、「三十六計逃げるに如かず」ということわざで日本でも知られる『兵法三十六計』に出てくる計略の一つです。
『兵法三十六計』は、中国宋代の武将・檀道済(たんどうせい)が記したとされ、戦いの状況に応じた三十六の計略がまとめられています。
囲魏救趙(魏を囲んで趙を救う)の由来
「囲魏救趙」は、兵法書として名高い『孫子』の執筆に携わったと言われる「孫臏(そんぴん)」が実戦で使った策で、当時強国であった魏を破り、趙を救った戦い(桂陵の戦い)が言葉の由来となっています。
「桂陵の戦い」とは?
紀元前354年、中国の戦国時代に起きた大規模な戦いで、孫臏が軍師としてデビューした戦いでもあります。
事の発端は、魏が趙を攻め、趙の都・邯鄲(かんたん)を包囲したことに始まります。魏軍の将は龐涓(ほうけん)、率いる兵は8万の精兵です。
首都を包囲された趙は耐えきれず、同盟国であった斉に救援を求めます。その求めに応じ、斉の威王は、田忌を将軍、孫臏を軍師に任命し、8万の兵で趙を救うよう命じました。
田忌は当初、魏が包囲する邯鄲へ真っ直ぐ向かおうとしますが、軍師・孫臏は
「二人が殴り合っている時、喧嘩を止めたいなら殴り合いに参加しないものです。隙をついて二人を引き離してしまえば、状況は落ち着きます」
と言うと、魏の精鋭が待ち構える趙に向かわず、手薄になっている魏の本国を攻めるように進言します。孫臏の進言を採用した田忌は、邯鄲に向かわず魏との国境付近で兵を留めると、魏本国を攻めるタイミングを計ることにしました。
一方、龐涓が率いた魏軍は、斉の援軍が到着する前に邯鄲落とすべく全力で戦っていましたが、邯鄲の守りは堅く、攻城戦で兵には疲れが見えてきました。
その情報を得た田忌と孫臏は動きます。時は今とばかり、魏の都・大梁(だいりょう)を目指して進軍を開始したのです。
その斉軍の動きに魏の恵王は慌てました。精鋭は全て趙の攻略戦に投入し、本国に残っているのは弱小の老兵ばかり。このままでは都を奪われてしまうと焦った恵王は、龐涓にすぐさま本国に戻ってくるよう命じます。
王からの命令を聞いた龐涓は驚き、すぐに邯鄲の攻略を諦めると、移動の邪魔になる軍事物資を遺棄し、昼夜休みなしで魏の都へと取って返しました。
斥候から龐涓軍の様子を聞いていた孫臏は、必ず桂陵の地を通ると確信し、斉軍の主力を桂陵に展開し待ち構えます。そして、孫臏の見立て通り、龐涓は桂陵へ向かって軍を進めていたのです。
強行軍で桂陵までたどり着いた龐涓軍でしたが、手ぐすね引いて待ち受けていた斉軍の奇襲を受け「桂陵の戦い」が始まりました。しかし、いかに精鋭といえども昼夜兼行で移動し疲れ果てていた龐涓軍は実力が発揮できず、一気に戦線は崩壊。「桂陵の戦い」は、斉軍の大勝利で終結します。
からくも戦線を離脱した龐涓は、たった一人で魏の首都に戻りましたが、この戦いで精鋭を多く失った魏は、国力の回復に十年以上要することになったのです。
囲魏救趙(魏を囲んで趙を救う)の意味
「桂陵の戦い」において、孫臏が「直接、趙の救援に向かうのではなく、敵の弱点であった本国を攻めるべきだ」と進言した故事が「囲魏救趙」の言葉を生みました。
囲魏救趙(魏を囲んで趙を救う)は「敵を集中させるよう仕向けるよりも、敵を分散させるよう仕向けるのがよい。敵の正面に攻撃を加えるよりも、敵の隠している弱点を攻撃するのがよい」という意味になります。
「囲魏救趙」まとめ
「桂陵の戦い」は、孫子の兵法にある “勝利の方程式” に則ったものでした。
魏の精鋭8万とまともにぶつかれば、引き分けに持ち込むことができたとしても、味方に大きな損害が出たでしょう。
しかし、孫臏は「孫子の兵法」にある通り、
実を避けて虚を撃つ
敵が備えをする「実」の部分を避けて、備えが手薄な「虚」の部分を攻撃するべきである。
愛する所を奪わば、即ち聴かん
敵が大切にしているものを奪取すれば、敵はこちらの思いどおりにできる。
佚をもって労を待つ
英気を養った状態で疲れ果てた敵を攻撃する。
といったポイントを押さえた上で、勝つべくして勝つ状況を見事に作り出し、最小限の損害で敵の精鋭を破ったのです。
そして「孫子の兵法」を実戦で活かした孫臏は大きくその名を挙げ、斉の軍師として活躍することになります。