孫武(そんぶ)は、中国・春秋時代後期(紀元前500年ころ)に活躍したの兵法家・軍人で、有名な兵法書『孫子(孫子の兵法)』の著者とされています。
今回は、兵家の代表的な人物である「孫武」について、見てみたいと思います。
孫武の歩み
孫武に関しては、前漢の正史『史記』、呉越の興亡について記した『呉越春秋』、唐の正史『新唐書』にその記載があります。
これらの資料に基づき、孫武の歩みを紐解いてみましょう。
孫武の出生
孫武の字(あざな)は長卿で、紀元前535年ころ斉の国の貴族であった田氏一族の子として生まれました。ちなみに田氏は、後に斉の国の王家に就く名家です。
孫武は、若い頃から兵書や古典を学び、古代の戦いや伊尹、姜尚、管仲らの用兵を研究していたといいます。
しかし、紀元前517年ころに起こった田氏一族の内紛を逃れるために、孫武は一家を連れて南方の呉へ向かうことになります。
斉から逃れ呉へ
こうして呉に着いた孫武ですが、呉国の宰相(君主を補佐する役目)であった伍子胥(ごししょ)に出会い、呉の首都・姑蘇の郊外にある山間に落ち着くことになりました。
そしてその時に自らの知識をまとめたのが、有名な兵法書「孫子」十三篇です。
孫武が呉へと逃れたのとほぼ時を同じくして、紀元前515年に闔閭(こうりょ)が呉王として即位します。
闔閭の側近であった伍子胥は、兵法書「孫子」を献上して、度々、孫武の登用を闔閭に促していましたが、ようやく七度目にして闔閭は孫武を宮中に召し出し、その後、紀元前512年に孫武は将軍に任命されることになりました。
闔閭が孫武を宮中に召し出した時のエピソードが、『史記』の孫子呉起列伝に書かれていますので、この一節を取り上げてみましょう。
孫武と闔閭の初対面のエピソード
史記(孫子呉起列伝)「孫子勒姫兵」より
孫武は斉の人である。兵法が評判になり呉王の闔廬へ拝謁することになった。
闔廬は「貴君の兵法書十三篇を全て読んだが、宮中の婦人を使って、少し兵士の訓練を見せてもらえるか」と言った。
孫武はそれを了承すると、闔廬は宮中の美女たちを外に召し出し、その数は百八十人となった。
孫武は婦人たちを二つの部隊に分けて、闔廬の寵姫二人をそれぞれの隊長として、全員にほこを持たせた。それから孫武は、婦人たちに「前を指示されたらすぐに胸を見よ。左なら左の手を見よ、右なら右の手を見よ。後ろならすぐに背中を見よ」と命令して言った。
合図の打合せが皆に伝えられると、命令に従わない者を処罰するためのまさかりを用意し、命令を何度か繰り返させた。
こうして婦人たちに右を向くように太鼓で命令した。婦人たちは大いに笑った。それを見た孫武は「合図の打合せが明確でなく、命令が十分に行き届かなかったのは、将軍たる私の罪である」と言って、再び何度か命令を確認してから、婦人たちに左を向くよう太鼓で命令した。婦人たちはまた、大いに笑った。
その時、孫武は「命令が既に明確なのに従わないのは、指揮官の罪である」と言い、二人の隊長を斬ろうとした。
それを見た闔廬は、孫武が寵姫二人を斬ろうとしているのを見て、大いに驚いて「将軍がよく兵を使うことはわかった。私はこの二人がいなくなると、食事も喉を通らなくなる。どうか斬らないでくれ」と止めようとした。
しかし孫武は「命令を受けて将軍に任命された以上、将軍は軍隊にあっては君命にも従わない場合もあります」と言い、隊長二人を斬ってしまった。そして、これを皆に知らせ、新たな婦人二人を隊長に選んだ。
こうして、再び婦人たちに太鼓で命令したが、今度は規則通り行動し、声を出す者もなかった。
確認した孫武は、闔廬に「兵はすでにすっかり訓練が整いました。そうぞ下りてきて御覧になってください。王が望めば、水や火に入っていかせることも可能です」と報告して言った。
それを聞いた闔廬は「将軍は、もう練兵をやめて休むがよい。私は下りて見る気にならない」と言った。それを聞いた孫武は「王は兵法の言葉だけを好んでも、実際の兵法を用いることがおできにならないようです」と答えた。
その後、闔廬は孫武の用兵の才能を認めて呉の将軍としたのである。
規律や権限の重要性は『孫子』の中にも記されていますが、孫武が単なる理論家で終わらず、実践を重んじていたことがよくわかるエピソードだと思います。
孫武、呉の将軍となる
こうして紀元前512年にようやく呉の将軍に任じられた孫武は、早々に楚の同盟国であった小国(衛星国)の徐と鐘吾の攻略を成功させました。
呉王・闔閭はその余勢を駆って、大国の楚へ侵攻しようとしましたが、孫武は
「楚国は衰えたといえども未だ強大です。また、呉は戦いが続いて兵が疲弊しています。今、楚を攻めるのは上策ではありません」
と進言し、闔閭もその言を受け入れました。
それからしばらくは、富国強兵に努めた呉と孫武ですが、6年後に転機が訪れます。楚が小国の蔡を攻め、蔡は友好国の呉に救援を求めたのです。
国力も充実していた呉の闔閭は楚に親征することを決し、孫武と伍子胥を左右の将軍に任じて軍を発しました。
孫武、寡兵で大軍を撃つ
強国・楚の軍勢20万に対し、呉の動員兵力は半数以下と数的劣勢の状況でしたが、孫武は自軍を二手に分け、一隊は国境付近にいる楚軍の本隊に向かい、もう一隊は精鋭3万人で楚の首都へ向かって密かに進軍させました。
当初、圧倒的な兵力差を生かして呉軍との決戦を考えていた楚軍ですが、呉の新手が首都に向かって進軍しているとの報を受けて、楚の本体は全速力で首都へ引き返すことに。
そして、呉と楚の両軍は漢水の河畔にある柏挙(現在の湖北省麻城市)で激突(『柏挙の戦い』)します。
『柏挙の戦い』では、強行軍で引き返し疲れ切っていた20万の楚軍を、待ち構えた呉軍の精鋭3万が撃破。その後も勢いに乗って、さらに五戦五勝した呉軍は10日間で楚の都を落とし、楚王を逃亡させることに成功しました。
孫武のその後
寡兵で強国・楚を破ったことで孫武の名声は大きく上がりました。
『柏挙の戦い』後も孫武らの活躍により、晋や斉といった大国を圧迫して覇権を握るかに見えた呉ですが、紀元前496年に闔閭が孫武の制止を聞かず、越を攻めて敗北。受けた矢傷が元で闔閭は亡くなってしまいます。
闔閭の死後、孫武は伍子胥とともに太子であった夫差(ふさ)を補佐し、国力を蓄えて、越に大勝して雪辱を果たすのですが、孫武の名前が歴史に残るのはここまでとなります。
孫武のその後については、呉王・夫差への讒言によって職を辞したとも、夫差に誅殺されたとも言われていますが、真偽のほどは定かでありません。
「孫子の兵法」を生んだ孫武ってどんな人?:まとめ
孫武は歴史の表舞台に登場していた期間は長くはありませんが、この時代の強国であった楚・晋・斉を圧迫し、弱小国であった呉を中原の覇者の手前まで育て上げた手腕は特筆すべきです。
弱者が強者に勝つ戦略を体現したことで、その後の時代における『孫子(孫子の兵法)』の価値を高めてくれたと言えるでしょう。